2019年2月9日土曜日

いつか死んで存在が消えるのに「自分」という存在は、いったい何なんだ?





突然ですが、


いつか死んで存在が消えるのに「自分」という存在は、いったい何なんだ?


と思ったことはありますか? 笑




今日は、「我思う、ゆえに我あり」について考えてみたいと思います。



Wikipediaで「我思う、ゆえに我あり」の解釈を読んで、感じたことなのですが、


この言葉を著書に書く前に、デカルトも、


もしや、このブログのタイトルと同じことを思ったのでは? と、私は想像しました。


どういうことかといいますと、



<デカルトの頭の中>


いつか死んで存在が消えるのに「自分」という存在は、いったい何なんだ。


あのきれいな空は、あまりに美しすぎる。


このおいしいシチューは、あまりにおいしすぎる。


どうして、こんな世界があるのだろうか?


私とは何なのか?


そもそも私は、本当に存在しているのだろうか?


もしや。誰かが作ってわたしに幻影をみせているのだろうか。


(あまりに美しい空や、おいしいシチューの幻影を)



いやまてよ。


でも、そうやって一つ一つすべてを幻影かどうか、疑っていったとしても。。。


どうしても絶対に存在するはず、


間違いなく存在するものがあるぞ。


それは、


いまこうやって疑って考えているという自分だ。



それで著書に


「我思うゆえに、我あり」


と書いたのではないかな?



と、

・・・長くなりましたが、こんな感じに思ったのかなーと、自分なりにデカルトさんに共感してみました。







いきなりですが、「我思う、ゆえに我あり」のなかの


「思う」


の部分を、


「書く」


に変えるのって、どう思いますか?笑



なんで変えてみようと思ったかというと、


「思う」は、他者からは知れないけれど、


思ってるだけではなく、「書く」にすると、



他者が「我(われ)」を知ることができるようになります。




もうちょっといいますと、


すこしの過去に書いた自分の文を


「我」として、


いまの自分が「媒体(紙やネットの画面など)」を通して


知ることができるようになるかなって。笑



久しぶりに自分のブログを読んで、


以前の自分の書いた文章を読んで、そんなことを思いました。



最初のデカルトさんの問いは、


絶対に存在するものはなにか?


であろうとと共感してた流れだったので、


「思う」を「書く」に変えても、


書いている自分は絶対に存在したわけで、どちらにしても趣旨は変わらず通じるかなと思いました。




しかし、これを書きながら、もう少し考えていたら、


「書く」に変えると、


媒体(紙やネットの画面など)のような「外のもの」


つまり、存在するかどうか疑っていた「環境」そのものに


これだけは確実に存在すると信じた「考えている我」を投影してしまったので、


もしかしたら、この文章自体は、本当に存在するのか? ということも


疑えるように変わってしまうので、


やっぱり、「書く」ではなくて、「思う」じゃないと駄目なのかもですね。笑




自分でも何を書いているのか、分からなくなってきました。。



今日はこの辺で。笑




読んでくださり、ありがとうございました!